「厚生闘争」の現代的意義


 本家ブログで昨日、感想を書いた岡本裕一朗氏の『ポストモダンの思想的根拠』に連なる問題圏だと思うけれども、福田徳三の「厚生闘争」という考え方がある。これは「社会的必要」を満たす(労使間の)賃金闘争を意味している。従来の賃金交渉を福田は「価格闘争」としてそれはより高い賃金水準を目的としているにすぎず、「厚生闘争」の方は労働者のより高い満足、社会的必要の充足を求めるものだと定義している。


 山田雄三が指摘しているが、この場合の「厚生闘争」は単なるゼロサムの闘争ではない。むしろ交渉当事者が一種の社会的価値観を共有する過程である。労使間の交渉はそのままでは労働者の交渉力が弱い非対称的なものである(なぜなら労働者は雇用されないと死の恐怖にさらされるから)。そこで国家が統制し、労働者に団体交渉の自由などの一連の交渉上の権利を与える。いわば、ややポストモダン的にいえば、労使の交渉は管理(監視)されているといえる。労使はこの国家の制定したルールの範囲の中で自由に交渉を行うことになる(山田雄三によれば福田の交渉の在り方そのものは、ガルブレイスが『アメリカの資本主義』などで描いた「対抗力」=利益集団の闘争対立に近いという。もちろんガルブレイスでこの利益集団間の闘争が一定の合意をもたらすかどうかは私はよく知らない)。


価値多元時代と経済学

価値多元時代と経済学


 そしてその交渉の結果、労働者の「社会的必要」を満たす厚生水準を獲得することが目的とされる。もちろん「社会的必要」とは何であり、またそれはどの程度の水準を要求するものであるかは、まさに交渉当事者の社会的な合意形成によらなければならない。


 この「厚生闘争」のイメージが、ポストモダン的な自由管理社会論におけるデモクラシーの問題にきわめて近いように思われる。
 

 山田は次のように福田の「厚生闘争」を解釈している。

「福田先生が厚生闘争ということを語るのは、個人(または集団)の間の闘争を通じて、しかもそこに社会全体の厚生を目指すことによって、闘争を調整する体制が形成されると考えられていたのである。
 この場合、福祉国家が何よりもまず権力国家からの離脱を重視するかぎり、専制的ないし独裁的な体制を排することは、異論がないであろう。しかし民主的な体制を考えるとしても、集団間の利害対立が自然調和をもたらさないとすると、どういう体制が考えられるのか」(山田雄三『価値多元時代と経済学』岩波書店)。


 ここには規律管理社会から自由管理社会への問題圏の移行、そして後者におけるデモクラシーの問題として、山田の福田解釈を読み取ることもできるのではないだろうか。


 山田は、福田の「厚生闘争」(=「社会的必要」の決定過程)を理解するキーとして、グンナー・ミュルダールの『社会理論における価値』(1958)の議論を紹介する。


「ミュルダールによると、民主社会においては、はじめ特殊利益の立場から討議が行われても、そこから次第に社会一般の共通利益の立場が生まれてくるというのである。しかしそれは必ずしも楽観的に見るべきではなく、そういう共通的立場がどうしても出てこない場合には「決裂」(civil war)の他はないとミュルダールはいっている。しかし、同時に彼は、西欧において「友愛、平等」などの道徳が高い価値を認められ、また洋の東西を問わずいわゆる高等宗教が幾多の波乱の間に継承されている事実をとりあげ、そこに高次の価値の社会的形成の可能性があるという。ただわれわれの場合の「社会的に必要」という概念はミュルダールの場合の高次の価値と同様に考えるには少々弱いように私には思われる」(山田、前掲書、301-2)。


 山田はミュルダールの高次の価値の議論と、カール・ポパーの『客観的知識』にいける社会的価値形成の客観性命題を重ねることで、西欧の宗教的な理念、「友愛、平等」などといった高次の価値と類似した価値理念に、「社会的に必要」が客観的なものとして立ち現れるであろうと述べている。


 この宗教的理念、「友愛、平等」そして「社会的に必要」概念が、それぞれ三項図式的な配置(例えば、人ー友愛ー人 という三項)の中でもつシンメトリカルな意義については、私は『沈黙と抵抗』で述べた。それについてはエントリーを改めて以下に書いてあるので参照されたい。


 以上の議論をうけて、山田は福田の「厚生闘争」を以下のように整理する。


「福田説の厚生闘争は民主的過程のうえの闘争である。それは、他を抹殺して自らを強要する闘争ではない。互いに他の行き過ぎを批判し抑制しながら、自他を含む全体の生活向上をはかる闘争であり、開放的かつ経験主義的な民主的討議による闘争である」(山田前掲書、302)。


 ここから福田の「厚生闘争」を山田雄三の解釈の範囲内で考えることは、山田が紹介したミュルダール、ガルブレイスポパーだけではなく、岡本本で紹介されていた一連のポストモダン関連の文献、例えばライアン、ハーバマス、ローティー、コノリー、ムフ、そして岡本本にはでてこないと思ったがカール・シュミット、ジョン・ホブソン、バーナード・ラッセルらの発言を学習する必要があることになる。しばらくここでそれらの文献の歪ともいえる紹介をするかもしれない(しないかもしれない)。