内村鑑三・森有正・住谷悦治の三項図式における客観的知識


 上記で言及した論点についての補遺。図表が必要だが時間がないので後刻。


 拙著『沈黙と抵抗』における内村鑑三森有正・住谷悦治論を利用して、上記の宗教理念、「友愛・平等」そして社会的価値観が、当該する社会の中で客観的な知識の座をいかにしてしめるか、という話。常識的には「友愛・平等」などの理念がなぜ科学的知識のような客観的な地位を占めることができるのか、疑問に思われるむきもあるかもしれない。


 この点については、上記のエントリーでも紹介した山田雄三がカール・ポパーの『客観的知識』を利用して簡潔に要点をまとめている。

「これまで客観性というと、実在の側に確実なものがあると見るのが通説であったが、ポパーによればそういう確実性は主観的であり、むしろ知識の世界において討議・批判が行われることによって、そこに知識が形成され、再形成されるのである。知識は客観性を志向することを通じて客観的になるのであり、同じことが価値理念の形成・再形成についてもいえるとすれば、厚生闘争は厚生を志向すればよく、それ以上に概念的に確定する必要はないことになる。しかし認識の客観性と違って、価値の場合は主観間の合意が必要であり、それに何とか答えようとしたのが「社会的に必要」という概念であろう」(山田前掲書、302)。


 この山田の解釈をより具体的にみるには、例えば内村鑑三の議論が役に立つ。内村鑑三は近代的な自我の在り方(自己中心主義)への批判として、「先ず聖き神の正義を以て自己の良心を撃」たれることが重要だと述べた。神の正義を通しての自己中心主義やニヒリズムの超克といえる。内村は「神」を通しての人間と人間の相互の社会的関係の構築についてもふれている。以下は彼の「霊魂の父」(1929)からの引用である。


「各自異なりたる霊魂の所有者であるからである 略 それ故に人は直に人に繋がる事は出来ない。縦令親子と雖も然りである。人は神を通してのみ相互に繋がることが出来る。下の図1を以て之を説明することが出来る。
 甲と乙とは如何にして親しき身内なりと雖も相互に一体たる事は出来ない。一体たらんと欲せば、甲乙各自先づ霊魂の父なる神に繋がり、神に在りて一体たることが出来る」



 この内村流の「神を通しての人間関係観」を、宗教ではなく客観的な「宗教的真理」の問題として捉えなおしたのが、河上肇であり、その精神的弟子であった住谷悦治であろう。


 住谷は図1に類似した図2を掲げて以下のように書いている。


「友情が成り立つためには、必ずまず人格の自覚がなければなるまい。この歴史的現実において、この一つの生命を、如何に生くべきか。この内的な反省と、置かれたとことの歴史的、客観的世界との自覚が必要である。単なる「我」のめざめ、単なる「魂」の自覚だけではない。新しい意味での友情は、人格の自覚ーー個性の自覚ーー個性の成長をどの第一点とするけれど、この個性の人格的結びつきが、社会・歴史的な共同目的において共通なものであることが大切ではあるまいか」



 図1と図2では「神」や「共同目的・理念」=友情 を通じて人々が社会的関係を深め、そして同時にこの「神」や「共同的目的・理念」が一種の客観的な真理である、という観点が明示されている。


 このような図1と図2での三項図式を、森有正は『内村鑑三』の中で次のように「人格的関係」として形容している。

「私はそれ(内村の述べた人と神との関係 引用者注)を具体的現実的な人格関係そのものと呼ぼうと思う。それは西欧流の、ことにエラスムスモンテーニュにはじまる、人間の自己完成を追求するヒューマニズムではない。人格概念ではなく、人格関係たるものである。それは、あらゆる分析と総合以前の、それらの主体となるべき人間そのものの在り方である」。


住谷は「友情」だけが「共同的目的・理念」の中味ではなく、「貧困よりの自由」「失業よりの自由」、そして「社会主義社会の実現」などを候補にあげた。ちなみにこれらはいままでの議論をみればわかるように固定的なものではない。「共同的目的・理念」の中味は、「社会的必要」や「福祉」の中味同様に先決的に定まっているものではない。山田や福田が指摘したように、闘争的議論の結果として決まり、それゆえに一定の「客観的知識」の資格を得るわけである。


 住谷はこの三項図式による社会のあり方(彼は別な表現で「環境的・歴史的必然への被縛性」と名づけている)への理解がすすむことで、「社会における自由」の獲得につながるともいっている。つまり自由を求めるほどに環境的な被拘束性(三項図式的な人間社会のあり方)への自覚がすすむのであり、これはこのブログの関心ごとである、自由管理社会の論点とシンクロするものであろう。